筑水青年会講演集会講話 合楽教会 伊万里支部 竹内通教氏
金光教の信心の本質
はじめに
これは三ヵ月位前でしょうかね。今日の筑水青年会講演集会に、委員長の安武先生から話をせんかということでございました。実は、九月は定例議会でありまして、定例議会中は一切お断りするんです。というのは、議会というのは、いつどういうことで、突発的な問題が起こってくるかわからない。そうすると予定をしておっても、予定にならないわけです。しかも、十九日といいますと、一番真中になるわけです。まだ、今、議会中なんです。ですから、お断りするんですけど、神様の御用ですから。それで、親先生にお尋ねさせて頂いたら、「おかげを頂きなさい」と言われましたから、早速、御返事をさせて頂いた。
おくり合せを頂く
そこで、私がおかげを頂きました。今回のこの講演会につきましては、私の方がおかげを頂きました。
やはり、こういう講演をさせて頂くことになれば、それまでの期間というものは、少しでも自分の信心を進めさせて頂いておらねば、自分自身が安心できないわけですから、そういう稽古をさせて頂きます。そうすると、ちょっと心を向けただけで、神様がおかげを下さいます。
今度の議会でちょっとした問題があり、立ち往生するんじゃないかと思ったのですけれど、その質疑応答が十三日になった。十三日というのは、合楽では御神願成就の日ですから、それを聞いただけでおかげになるんです。私は、おかげ頂いたと思ったです。おかげ頂いて、それも無事過ごさせて頂いて、今日になったわけです。
雨のおかげで
しかも、今日は雨のおかげを頂いている。本当に出やすくさせて頂いた。勿論、今日の運動会、各町で運動会があるんですけど、私は、断らせて頂いてはおったんですけど、それでも末端には浸透しないんです。だから、「市長は来なかった」ということをいうのですね。ところが、雨が降って運動会がなければ、そういうことを言われることはないわけですから。神様のおかげを頂いて、神様がちゃんと出やすくして頂くわけです。
神様の御用
しかも、今朝、皆さんと朝の御祈念をさせて頂いた。御祈念をさせて頂くというのは、親教会を拝ませて頂くわけです。親教会の朝の御祈念をご参拝の皆さんと、私の家で拝ませて頂くわけでございます。私の家は教会じゃございません。ですから、親教会の朝の御祈念を家で拝ませて頂いて、親先生のお話を聞かせて頂くわけです。テープで録ってきておりますから。
今朝の御理解が第五十四節ですね。御用に立てということですね。神様がちゃんとそういう風にお示し下さっているわけです。その中に、阿倍野教会の伊藤コウ先生のお話がありまして「どんな難儀をもってきても、伊藤先生は、私なら神様に御礼を申し上げるがの」と言われる。そういう御理解であったわけですけれど、そういうお話を、今日は、私が頂いている信心の中で、おかげを頂きたいと思っておったんです。
神様の示されるままに
一切神愛ということですね。ですから、ああおかげ頂いたと思って、更に、今朝、車で、親教会まで聞かせて頂いたのが、第四十八節ですね。ままよの心が説かれてるわけですけど、このままよの心を話したいと思っておったんです。皆さんの前に、「厳頭の感」というのを差し上げていますが、それがそういうことに関連するわけです。先へ先へと、神様がちゃんと教えて下さっているわけでございます。
我を忘れて
そして、親先生に、「只今から御用にやらせて頂きます」とお届けさせて頂いたら、「我を忘れる」ということを御教え頂いて、今日は、我を忘れておかげを頂きたいと思います。
おかげを頂いて、我を忘れることができるわけです。雨でありますから、伊万里のことを心配することは何もないわけです。
より本当を求めて
皆さんは、どんな宗教を信心しておられますか。私は金光教の信心を頂きたいと思う。なぜならば、金光教の信心は、この世におけるより本当の宗教と思うからです。
より本当という表現は比較級ですね。最上級ではありません。しかし、この現実の世の中には、絶対はありません。この世の中は全て比較級です。より本当であるか、より本当でないかの差です。従って、相対の中で、あとのすべてがそれ以下であれば、より本当ということは、いつも最上級ということになるのです。
現に、私は金光教以上の教えを知らないし、その教えを、合楽では、常により深くより本当のところを求めて精進されている。
御神縁
私はお蔭を頂いて、母のお腹の中から御神縁を頂いております。今度、新しい神前拝詞ができまして、来年の元旦から奉唱するようになるわけですけれど、その中に「神縁まことに不思議にして」とあるわけです。本当に皆さんは、不思議な御神縁の中に今日があられると思う。
私のその実感は、母のお腹の中から信心を頂いた、私の知らない時からの御神縁というところにある。それが、私を他宗に走らせず、本教を一段一段深めていくだけの信心になっていった。そして、千載一遇の合楽の教えに触れる機会を早めさせて頂いたと思うわけでございます。
より本当の宗教
私は高等学校の時に哲学を学び、また、曹洞禅宗の正法眼蔵の課外講義等に参加した。そして、その都度、金光教の御教えに帰ってくるのです。成程、この御教えはそういう内容を持っていたのかと、いつも御教えの内容を深めてゆく働きとなってきた。
金光教の御教えは、その体系、その言葉づかいが極めて簡単で、それなりに受けとり易いが、しかし深めてゆけば、どこまでも深くなってゆく御教えなんです。本当の教えというものはそういうもので、合楽の親先生は、三十年このかた、教祖の御理解と取り組んできたが、いまだに解き明かしきれないと言われている。
私は、他宗の教えを聞かせてもらったり、世の真相を哲学に求めたりして、その都度わが教えに帰るばかりでなく、いつも金光教のその教えがもっと深いものがあるという確信を得てまいりました。しかも、それが今日、合楽の親先生によって実証されているのです。
神は声もなし形も見えず
話は変わりますけれども、私は久しい間、神の姿や形を求めていたことがある。やっぱり信心の過程では、若い時には、それを求めることがあるんです。肉体という形を自分自身が持っている人間は、姿や形があれば一番信じ易いから、どうしても姿形を求めたくなるのだと思います。
例えば、仏教では仏像を拝みます。ところが、私は仏像を見て、こういう疑問が起きてきた。それは、なぜ仏像は一つの姿ではなく、いろいろの形の仏像があるのだろうかということです。もし御仏が本当に衆生を済度して下さる唯一最高の方であるならば、その姿は一つであるべきだと思うのに、いろいろの形の仏像がおられるのを見るわけです。
それは結局、いかに唯一最高であろうとも、それを現実に形に表わしてくると、それだけでは、こうあってもらいたいという私共の願いが十分に果せないんです。そこで、次の姿や形を求めてしまうわけです。
形に表われますと、そこで満足できないようになる。この世の中には、絶対というのはないわけですから。現実の世の中は相対的な世の中ですからね。ですから、それだけでは満足できない。そこでまた、次の形を求めるということになるのですね。
そして、いろいろの姿があっては、今度は逆に、もはや絶対とか唯一最高とは言えないということになるのです。
仏教では、最近は、唯一最高というよりも、むしろ御仏が専門化して来ておられる。例えば、子安観音とか悪疫退治の不動明王とか。あとで申しますが、これなどみると、もはや姿・形というよりも、働きを表わしているといった方が適切である。
だから、これからは皆さん、神様をはやらせようと思うなら、ガンの神様が一番はやるのではないかと思いますね。
働きが神を実証する
以上述べたことでも分るように、また、御教えに「神は声もなし形も見えず」とあるように、絶対の神様であるならば、それは姿や形から求めてはダメだということです。求められないということです。
だからと言って、神様を私共の頭の中の観念の中だけにとどめておっては、それは現実に何の力もない哲学的な神に終わってしまうのです。相対の現実とのかかわりあいを捨ててしまっては、衆生を済度する宗教とは言えない。
だから、現実とのかかわりをどこに求めてくるか。神様と現実とのかかわりをどこに求めてくるかということが必要になってくると私は思う。
そこで、神様の存在を実証するものは何かと言えば、それは姿や形ではなく、神の働きとしての現実とのかかわりあいであるわけです。
どういう神の働きか
だから、宗教とは、神の働きをどんな働きと見るかにかかってくるんです。
皆さんは、どういう働きの神様を、天地金乃神と頂いておられますか。私が冒頭に「皆さんはどんな宗教を信心しておられますか」と言ったのは、今日金光教の信者でありながら、その信ずる神の働きが「天地金乃神と申すことは」になっていない、仏様でもいい、キリスト様でもいいというようなことになっている人が多いのではないかと思ったからです。それでは、金光教の助かりというものはありません。
金光教においては、「天地金乃神と申すことは…」と御理解第三節にあります。そこでは、姿形は説かず、働きを説いてあります。金光教というのは、神様の働きがビンビンビンビンしているんです。だから、その働きを頂いておれば、もう姿なんかどうでもいいのです。どうでもよくなるんです。
幸せにせずにおかん働き
合楽では端的に、「この天地の働きの中で、人間を幸せにせずにはおかんという働きを、天地金乃神の働きと頂いて、その働きを受けぬくことが、金光教の信心である」と言われる。私もそう確信させて頂いている。
何故ならば、金光教祖は、神と名のつくからは、人を幸せにせずにはおかん働きの方に違いないと、どこまでもそこを受けぬき、立て通されて、当時祟り障りの神として恐れられた金神を遂に、天地金乃神に変えられた。
金光教祖の御神格
それも一度にそこに到られたのではない。
前教学研究所長の瀬戸美喜雄先生(甲山教会長)によれば、金光大神の御生涯を三段階または四段階に分けておられます。
人を生かす働きの神様に違いないと、どこまでもその受け方を進められ、教祖の心境が進まれると共に、それに応ずる神様が現われて来られました。
また、神様の御働きに応じて神名が進まれると共に、教祖の御神格も進んで行かれ、ついに天地金乃神を取次ぐ生神金光大神の境地に達せられたわけですね。祟り障りの神様を変えられるくらいですからね。
人間に何故神が必要か
一体、神様がなぜ人間に必要でしょうか。それは人間に解決のできない問題があるからです。その自分で解決の出来ない問題を難儀と言うんです。自分で解決する間は難儀にならないですね。
人間には元々形がある、有限の身であるので、必ず問題意識が出てくる。問題が人間に内在している。言わば、問題なしには生きられないのが人生だと言える。ここをしっかり腹に入れとかんと、問題から逃げようとばかりするのです。どうぞ問題おいで下さいと腹をかまえないかん。
問題なしに生きられないのが人生とすれば、宗教は人生になくてはならないものになる。ところが、宗教とは無縁で一生を終る人もあります。
無限有位
通常、人間は手に負えない問題、即ち難儀を何で克服するかというと、金や物や技術など、自分で駆使できるものや、更には人の手を借りて、難儀以上の力をつくることによって、これを克服しようとする。
例えば、五つの難儀があるとすれば、五つ以上の力をもってくれば、解決するわけです。この宗教の解決の仕方を、東大の岸本博士は「無限有位」と言っておられますけど。いつでも力の方が大きければ、難儀は解決していく。
ところが、そのような人間の力ではどうにもならない難儀が起こってくる場合がある。また、「一難去ってまた一難」と言われるように、次から次に、難儀が起こってきて、それを克服する気力を失ってしまう人もある。
そのような時に、宗教のない人は、ただいたずらにその難から逃れることを考え、そして、どうしても逃げられない時は、そもそも難儀は人間の有体有限であるところに起因するので、その有体有限をなくすることを考える。つまり死を選ぶ。
フロイドという心理学者は「死への欲望は、どんな人間の無意識下にもある」と言っている。死にたいという欲望がある場合に、意識の上に現れてきて、とうとう死んでしまうことになるのですね。
それでは元も子もなくなってしまって、その人の問題の解決にはならない。命があって問題がなくならねば助かりにはならない。
宗教の中にも、このように、あの世に解決を託するものがあります。私共はそうじゃない。命があって、その中で問題が解決して行く、助かりになって行くという宗教を頂いているんです。
厳頭の感
皆さんは、昔の第一高等学校の生徒であった藤村操が人生の悩みが解決できずに、日光の華厳の瀧から投身自殺した時に残した、「厳頭の感」という有名な詩を読んだことがありますか。これは日光に行かれるとちゃんと刻んであるんです。
『厳頭の感』 藤村 操
「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今。五尺の小尺を以て此大をはからんとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、曰く『不可解』。我この恨を懐て煩悶終に死を決するに至る。既に厳頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを」
悲観から楽観ヘ
万有の真相を突きつめてみたが、どんな権威の哲学によっても解決できずに、結局不可解ということになってしまった。この上の解決は死以外にはないと決心して、この厳頭に立つに至ったというわけです。
皆さんは、万有の真相をただ一言で尽くせば何ですか。金光教の信心をなさっている皆さんは、何と答えられますか。私は「神愛」と思いますね。
ところが、厳頭に立つや、胸中の不可解は消えて、大いなる悲観が大いなる楽観に一致することを悟ったというのである。大いなる悲観が大いなる楽観に一致することが解ったなら、死ななくともよさそうであるが、藤村 操は、死がそこを与えてくれたとして死の道を選んでしまった。死を決して、なお生のあることを見落しているのです。
果して死を選んで藤村 操に楽観が更に持続したでしょうか。この世で神にならずして、あの世で神になれませんよ。だから、この世を大事にせないかんですね。たとえ、楽観が持続したとしても、現に生きている者にとっては、死後のことはあてにできない。また、無縁のものである。
それよりも、死を決した時に、まだ死に至らない生の中で、大いなる楽観が生じている。そのことは生の中のことであるから、あてにできる。従って、そのような生を持続してゆけば、楽観の生にならないかということになる。
死んでもままよ
人間の生は「死を決する」ことによって、その後の生との間に、悲観から楽観へと、全く異質のものになることがわかる。いわば問題がなくなったということです。
御理解第二十二節にも、ここの所を「……神の徳を十分に受けようと思えばままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ」と分り易く説いてある。親先生の御教えにも「ままよとぞ思う心になれよかし 神の心はその奥にあり」とあります。
そこからが本当は宗教です。死ねではないですよ。ままよという心、どうなってもいいという気持ちです。神様に全てお任せしますという気持です。そうならなければ楽観に変わってこないわけです。死んでもままよという心になるということは、自分で生きることをやめることです。自分の我による生き方をやめることですね。しかも、なおそこに生があるということは、自分の意思で生を決めておるのではなく、自分の意思以前に生があったということですね。
生かされて生きる
その死を決してなおある生を、ただ当然にあると見るか、生かされてという働きを受けての生きていると見るかによって、哲学と宗教の相違が出てくるように思うんです。そして、当然の生と見ただけでは、楽観は得られないです。せいぜい諦観しか出てこない。
高橋正雄先生も、「自分からは食べまいと決心したら、食べさせずにはおかんという働きになってきた」と言っておられる。金光教の信心をさせて頂くならば、やっぱりここを一度おかげ頂かんといかんですよ。
先程は、神様の働きに出会うといいましたが、それは、私共が生かされて生きておる、その生かされておるという働きに出会うのが信心ですね。そして、そのためには、これまでの生を否定することが必要であるが、その否定の仕方は、生の断絶、飛び込みではなく、その時、自己の存在をあらしめている働きに任せる意味における否定、言わば我をなくすること。我を殺さなければ神様の働きに出会うことができない。
神様のおかげで生かされている。ここは認識をこえるところ、相対を絶するところ、あらしめられてある生に気付くところですから、それを気付いて、そこを信じていく以外ないのですね。ここは疑っては進めないところです。
信じて深めていく
相対の世界における学問は、「どうして」と疑って進歩して行きますけれど、絶対の世界では、常に「こうして」と信じて深めて行く以外にはないのです。
ここに神様の思し召しがあるのではないか。これは神様のお働きではないか、御神愛ではないかと常にそれを頂いていく。信じる方に頂いていかねば!疑ったら常識に返っていきますからね。それではおかげにならない。
私は学問の世界では、親先生に負けるとは思わないが、こと信心においては、親先生が、「どこからでもかかってこい」と言われるので、油断をみすかして打ち込んでみるけれども、とうていかなわない。成程と思うて、やっぱりやられるわけです。それは、どうしてと疑うてかかることでは親先生より上かも知れないが、こうしてと神様を信じて深めてゆくことにおいては、私など赤児のようなものです。
親先生は常にままよの心でおられる。そこに、天地との交流があり、その天地との交流から生まれてきた知恵には知識じゃ勝てないです。
矛盾の同時存在、同時解決
話はちょっと変わりますが、元々、生と死との間につながりはない。勿論霊の世界はありますけど、生との間の連絡はなくなるわけです。即ち不連続、そこで断絶してしまう。
ところが、死を決して生きるという生き方がある。ここでは、不連続のものが生き返って連続している。生き返ったといっても、一旦死んで生き返ったのではなく、死を決して生きる性質を変えている。
また、死は否定、生は肯定ですね。ところが、ままよという心で生きるということは、否定をもった肯定があることになり、否定と肯定が同時存在をしている。
また生きとし生けるものは、相対的存在にすぎず、死は絶対のものであるが、ここには絶対のものを内在して相対的生が見い出されている。
哲学者は、不連続にして連続、絶対にして相対、この矛盾の同時存在・同時解決こそ、最高の理念と言う。けれども、それを本当に現わし実証していくには、哲学ではできない、宗教の世界でしか得ることができない。なぜなら、哲学であれば、自分の生き方はやめたけど、ただ生があったというだけです。私共はそうじゃない。生かされて生きておるという生を頂いていくのですから。
どう生かされているか
古来、宗教家は、人間の問題を解決するために、全てこの生を求めて修行されている。いや修行された結果が、その生にたどりついたと言うてもよい。宗教では、常に無と有が問題にされる。そして、生かされて生きている人間の実相における生かす働きは何かと求めて行った。
そこで、更にこういうことになると思う。前に、私は、「どういう働きの神を頂くかによって宗教が分れてくる」と申しましたが、ここまでくると、私共の生は、あらしめられてある生を頂くことによって、生きながら楽観が得られるが、そのあらしめられ方をどう頂くかで、より本当であるか、そうでないかが分れてくると言えると思う。
生かす力を外におく宗教
そして、これまでの多くの宗教は、今ある生を、そのままあらしめられる生にかえることなく、別に絶対者の働きを立て、それによって生かされているとした。しかし、それでは、生そのものの変質ではなく、従って、生に伴う難儀のなくなるはずもなく、したがって、またいくら祈っても、祈り通りに現実が成就しないことが起こってきた。
そこで、ある宗教では、どうしても難儀がなくならないので、難儀そのものがあるのは、元々人間がそういう罪(原罪)を背負っているからだとし、またある宗教では、過去の因縁によるものとしたが、これでは問題が減るどころか、逆に増えて、問題の根本的解決にはならない。
「十三」と「四」
このように、宗教でも問題を残してしまっている証拠に、例えば、ホテルに十三階がなく、部屋にも十三号室がない。それは、キリスト教などで、「十三」という数字が受難の数字とされるからだと思うが、本当は問題を解決してしまわなければならんのです。その力がなくて宗教と言えますか。
さらに、誰が決めたのか分らないが、「四」という数字も、死につながるというのか、四の部屋もホテルや病院にない。
そんなに嫌いなら、数字そのものから「四」や「」十三」をなくしてしまえばよさそうだが、もともと数字が先にあって、その中の特殊な数字を、特殊な者が嫌うようになったのだから、数字から抹殺はできない。それでは十進法が成り立たない。宗教的に考えなくとも何だか情けなくなる。
合楽では、十三日は神願成就の日とされ、「四」はしあわせのしにとるから、「十三」と「四」は多い程よい。自動車に乗って前の車の番号が「十三」と「四」であれば、私の今の行動は御神願にかなっているとして拝みさえする。
台風十三号
八月二十六~二十七日に、台風十三号が九州に接近すると、軽井沢の研修会の時、ニュースで聞いたが、十三号と聞いておかげと思った。事実、九州の東方海上を北上しておかげ頂いた。
本当は、「十三」や「四」を逆に取り立ててよしとするのも問題です。一切の数字が神愛である。その稽古のためにも、人がケチをつける数字を全く逆にとる受け方の稽古も必要で、その上で、一切が神愛であることが分ってくる。
問題は、数字ではなく、こちらの受け方であります。東京からの帰途、合楽教会に参拝して、台風の目の御理解を聞かせて頂いた。必ず、親先生がどう頂いておられるか出てくると思ったからです。
丁度その日が、御理解第三十二節を神様から頂かれ、その中の「神様頂きますというような心で台風を迎えれば、あたることなし」という御理解であった。
素晴しいですよ。私は、合楽の教えの深さと、この心で受けることができれば、山伏の毒まんじゅうにあたることなくおかげを頂かれた教祖様のように、たとえ台風が来ても、あたることなきおかげになることを確信した次第です。
台風をも神風にかえる道
だから、信心というのは、今の世の中で、台風を神風(御神愛の風)に変える道ですよ。しかも、元寇(いま伊万里湾の鷹島で水中考古学による発掘調査が行われていますが)の時のように、敵をやっつける神風ではなく、一切を生かして下さる神風に変えることができます。
それでは、台風は歓迎すべきかという人がありますが、信心はその人その人のその場の問題で一般論で決めつけることはできません。
宗教の中には、このように、何かを忌み嫌うものがありますが、それ自身がもう宗教性がないと私は思います。さらに、ひどいのになると、「片手にコーランを、片手に剣を」と言って、相手が承服しない場合は、戦争に訴えてでもやっつけるという、逆に問題を起こし、問題を大きくする宗教さえあります。
力の論理と神の論理
最近、隅田隆太郎博士が「力の論理と神の論理」について書いておられるそうですけど、力の論理を神の論理としている宗教があることを知っとかねばいかん。いかに戦争が一文の得にもならないといっても、戦争が現実からなくならず、そこにおいても、たとえ、敵・味方に分かれていても、敵も味方も助かる道があることを教える宗教こそ、私はより本当の宗教だと思います。
人間の問題の究極的解決
さて、わが国における宗教学の泰斗、岸本博士は「宗教は人間の問題の究極的解決」と言っておられる。そして究極的である以上、相対的でもなく、限界性があってもならないとされる。
例えば、富も人間の問題を解決するが、死の前には無意味で、従って相対的解決しかできない。また医学が人間の問題を解決する分野は人間の健康の問題に限られる。
そういう相対性や限界性を超えた解決はどこから生ずるかというと、無限有位の存在の信念からであるとされる。やはり、ここでも解決の力が問題の外にある。
一切神愛のあらわれ
金光教では、問題そのものを変えてゆく。今まではある問題から、神様によってあらしめられている問題に変えて行く。いちいち華厳の瀧の岩の上に立たなくともいいんです。お取次によって、これまでの生をあらしめられてある生に変質して頂く。
ところが、宗教の中には、いちいち岩の上に立たねばならん宗教もある。ある宗教で、予言が当らなくなると、何日修行といって山にこもり、そこでもりもりするような力を受けて山を下るというところがある。親先生は、神様からそういうものは入道雲のようなものだと頂いておられる。
華厳の瀧に飛び込まないで、これまである生をあらしめられている生に転換するにはどうしたらよいか。そういうことを言うても手立てがわからんでしょう。
そこで、合楽理念では分かり易く、いま自分の身の周りに起っておることを、一切神愛の現われと受けて行くと説かれる。
合楽教会の前身である金光教神愛会は三代金光様からつけて頂いたものですが、親先生は、その神愛をひたすら求め続けられて、一切神愛論に達せられた。
最も確実かつ最高の理念
現実の人間にとって、今自分の身の周りに起っておることほど確かなものはない。誰も否定できない。身の周り以外から別の力を持ってきたりすると、そのことを確かめなければならない。しかも、その最も確かな、今身の周りに起っておることを、そのまま絶対者である神の働き、一切神愛とすることほど、その成り行きを最高に価値づけるものはない。しかも、それをそう頂くことによって、最高の価値が実証されて行く。
私は合楽理念によって、はじめて、最も確実にして最高の神様を頂けるようになった。
一切神愛
私は、高等学校時代に、正法眼蔵の課外講義を受けた時、「一切仏性」と論文に書いて、講師の秋重博士より、その線を進めてごらんと言われたことがありますが、今思えば、その仏性とて、外からの働きのように受け取っていた。
それが、合楽理念によって、一切の成り行きをそのまま神愛と頂く、これは内在しているということですね。私は、より本当の宗教に出会うを得たのです。
一切神愛である以上、難もまた神愛であって、今私に丁度ピッタリのこととして神様が与えて下さったものと受け、神愛に変質することが大切である。
皆さんは信心しておれば難儀がなくなってくるように思っているかも知れないが、先に言った通り、人間が有体・有限である以上、そのことの中に、難儀は内在するものであるから、決してなくならない。だから、逃れようとしても駄目です。そこで、来る難儀来る難儀を次々に神愛に変えて行くのです。神愛として受けて行くことが大切です。
難も神愛
この道は、金神の祟り障りと思われるような難儀までが、人を生かし、幸せにせずにはおかん、天地金乃神の働きに変えることのできる道です。簡単に言えば、起ってくるまでは難儀、起ってからは神愛にしていくんです。そこから、悲観が楽観に変わる働きが生れてまいります。そして、その御神意の取り方を進めていると、難儀の性質が変わってくるのです。
私は、金光教ほど難儀にもってこいの神様はない。難儀を解決するにピッタリの神様はないと思う。どんな難儀でも解決して下さる神様は究極的な方です。ですから、岸本博士が言うておられる無限有位の力ということも、外にあってはいけない、中になければ。難儀の中にあると見て行かねば、難儀そのものが全面的に変わって行かない。
あれもこれもおかげ
皆さんは、御理解第五十三節をどう頂いておられますか。私は中学の時、肋膜を患って、中学校・高等学校をあわせて三年落第したんです。ところが、中学時代の優秀な友達は皆戦死しています。私は肋膜のおかげで助かったのですからね。肋膜が生かしてくれてるわけですから、ね。
また、三年落第したおかげで、友達が人の三倍おり、私が市長になった頃は、友達が政府や県の部局長で、仕事がどんどんさばけたのです。
私が大学に入った時に、末広元太郎先生という民法の世界的有名な先生が「友達を作れ」と言われた。勉強せよではなかったんです。「いい友達を作っておけ」、大事なことですね。その友達のおかげでおかげ頂いた。ですから、何がおかげになるかわからないでしょう。
命の転機
私は中学二年の時、肋膜をやり、その時、遅れたくなかった。医者は「もう一時ゆっくりしなさい」と言われた。しかし、遅れたくないから、とうとう無理して行ったんです。一年遅れたくないばかりに無理して行った。そしたら、二年遅れないかんようになった。その時は、これはいかんと思って、神様でおかげ頂こうと思って、医者に全然かからなかった。二年間ですね。その時は、途中で悔みの客まできました。私の家は、御大祭の時は全部戸をしめてお参りしますから「ハア、とうとう竹内んとこもいかんだったとばい」と言うてね、悔みに来られたことがありますけどね。
もう、これはいよいよいかんなあと思った時にですね、「医者にかかりたいと思うけど」と言うたんです。医者にかかってない訳ですから、死亡診断書をもらってないと、これは焼いてもらえんのじゃないかと思った。死んだ先まで心配することはないのですけど、母に迷惑をかけはしないかと思ったんです。だから「医者にかかりたいと思うけど」と言うたんです。
いやもう、母が言うのにはですね。「今まで死んだ者を放ったらかしてあったということは聞いたことがない。そんな心配はする必要ない。しっかり信心のおかげを頂きなさい」と言われたんですね。
それが命の転機でした。ままよという心を出さねばおかげは受けられんですよ、やっぱり。それから、日に日に厚紙をめくる如くおかげ頂いた。こっちの腹が決まって、「よし!おかげ頂くぞ」ということで。それから大祓百巻御祈念をいたしました。その病気の中でですよ。
もうままよの心にならせて頂いた訳です。おかげ頂いて、今日こうして元気でおらして頂いてる訳です。
病気という名の神の御都合
正に、合楽の親先生の言われる「病気という名の神様の御都合」なんですよ。私は病気が治ることを、あるいはその治り方をおかげと思っていたが、病気そのものがおかげであった訳ですね。
また、落第もしたが、落第という名の神様のお思召しですね。自分の周辺に起こってくることを、神愛と頂いていく訳です。どこに御神意があるかわからんと受けることによって、思いもしないおかげにつながってまいります。
素直心の一つにて
合楽では、一切に御の字をつけて頂く。よく、へそ曲りの人で、「それなら病気した方がいいのか。何でもが御神意なら、何もせんでもいいのではないか」と言う人がありますが、信心はへそ曲りでは、絶対おかげを頂くことはできません。
「素直心の一つにて 雲の上まで登る道あり」と言われます。
その素直心とは、どこが御神意か、どこかどこかと御神意を尋ね尋ねすることです。その素直心がなければおかげになって行きません。そして、その難儀を御神意に変えさせて頂く。そうすると、それがおかげになってくるんです、いつの間にか。
疑って進むのではなく、信じて深めて行かねばなりません。また、起こってくることが御神意とするなら、それを放ったらかしにはできません。真剣に実意を尽すことが大切になる。
お道の独壇場
ある難儀が起こってくる。お取次を頂いて、その難儀を御神愛と頂く。そこから御神愛としての働きが出てくる。それが一定の時期を経た時、思いもかけないおかげに変わっている。後で考えて、その時の難儀がおかげになっている。
ところで、後で考えてあれがおかげになるというのは他の宗教にもあるんです。けれど、金光教がより本当の宗教というのは、あれだけでなく、これだけでもなく、あれもおかげこれもおかげ、一切がおかげ、起こってくる全てがおかげというところに、この御教えの独壇場がある。一切神愛と受けるのだから、一切神愛にならないはずはない。そういう信心をさせてもらわねばならない。
また、あとで考えておかげであるならば、既にその時おかげであるはずだから、あれもこれも一切をおかげとさせて頂けばよい。
ところが、そのような身凌ぎの信心が一度にできることにならない。生身の人間は、自分のことになると、ある時は、その転換ができても、ある時は、できない。そこでお取次の作用が必要になってくる。
御神意を伝えるお取次
お取次とは、氏子の願いを神に取次ぎ、御神意を頂いて、それを氏子に取次ぐことだと思う。ところが、前述の瀬戸先生も言われるように、御神意の取次がれている教会が非常に少ない。
氏子の願いはよく聞かれる。ところが、御神意の方は常識になってしまって、単なる人生相談、即ちカウンセラー的取次が多い。そこのところを瀬戸先生は、「お取次には常識との落差が必要」と言われている。
人間の問題を大別すると三つに分けられる。御理解第七十八節にも、「身代と人間と健康」と言ってある。そして、これらに関して起こった問題を、常識で解決するのであれば、身代については、経理士や税理士、人間については、弁護士やカウンセラー、健康については、医師の方が金光教の先生よりはるかにベテランである。
ところが、世の中にはそれで解決できないものがあるんですから、それを神様のおかげを頂いて解決しようとしているんですから。それは常識との落差がなければいかんですよ。また、できることならば、一切の人間の問題が問題でないようにありたい。その道を今まで述べてきたのであって、したがって、その道によらねば金光教の肋かりはない。
それは、お取次によって御神意を頂くこと、常識を超常識に変えて行くことです。自分の常識は捨てなければ、神様にあげてしまわなければいかんですね。
別ものの正直
御理解第二十七節に「人が善いのと神に信心しておかげをうけるのとは別ものぞ」とあります。いわば、道徳だけでは信心のおかげにはならないんです。
私が、第三期目の市長選の激戦の時に「そんなに人のよいことだけでは選挙にまける」と、ほとんどの人から言われた。成程、向うは策士が多くて、「一億円の家を熊本に建てた」とか、ありもしないことを宣伝して落とそうとする。こちらはそれを合楽理念によって黙って受ける。
また、こちらの周囲は人のいい者ばかり。事実、選拳法はザル法と言われるくらいで、抜け道を知り、裏をかいて行く者には、正直者が必ずしも勝つというわけにはいかんということもある。それが選挙の常道だと思っている人もある。
ところが、私の方は、神のおかげを頂いての正直で、別ものの正直ですね。だから、おかげの頂けないはずはない。そこが、先方の見落しのところですね。向うは、当然勝つものとして、開票が始まると、戦勝祝いの料理屋まで準備して、庭に水をうっておられたとのことです。
正に、常識との落差が必要で、ただ道徳的に正直だけでは、即ち神に信心しておかげを受けなければ、天地の味方、成行きの成就を頂くことはできない訳です。
神様の御用としての市長
私は助役を二期して、市長選に出馬した訳ですけれど、その前の時から、私に譲ると言っておられたのです。ところが、もう一期待ってくれということで、出馬すると言われて準備しておられた。
私の方も、周りからあまりにも勧められるもんですから、親先生にお願いすると、「御用の十手を頂く、お上の御用に立つということだから、出なさい」と頂いた。「今は手は揃ってないけど、十手ということは、次第に十分に手が揃うということだから出馬しなさい」との御理解であった。そして、そのお言葉通り、こちらに手が揃って、先方は出馬をとりやめられ、私は無競争で当選した。
ジンクスを打破
二期目も無競争であったが、先方は県議に出ておられて、市長への執念を断ち切れず、県議中に、充分準備を整えて挑戦された。従来、伊万里の市長は三期はジンクスであったが、私はジンクスなんかあるのがおかしい。これは、絶対人間の考えの中から打破せないかんということで、親先生にお願いしたら「出なさい」ということで、出馬させて頂いた。
先方は、大体、選挙に負けたことのない方で、大変な自信家であったが、自分だけの人力ではだめです。予想をこえて、私の方が四千票多かった。
人力に見切りをつけて
神力にすがれ
人力自ら湧く
本当に、そのような中に、人の力を得て当選させて頂いた。四期目もおかげで無競争で当選することができた。五期、六期と続くかもしれない。
しかし、一切そういう野心はない。神様から与えて頂いた今の仕事にいかに命をかけるかということだけである。
あとは、続こうが続くまいが神様任せ。親先生がやめろと言われれば私はいつでもやめます。それだけの覚悟はできている。いわば、いつも厳頭の上にある心でおかげを頂いている。
天地がバック
今、外で行事のある時、「今日は市長が出席するから天気は間違いない」と言う人が多くなりました。私はそういう徳も何もありませんが、事実そうなるので仕方ありません。
先般の消防の夏期点検も、台風の午後で、前日も翌日も大荒れ。その日も、点検が始まって終るまでが雨が降らず、しかも曇りで、風があり、絶好の涼しい夏期点検日和で、その日も、一部の人がそういうことを言っておりました。
今、全国に六五一の市があって、私は他の市長より力もすぐれたところは何もありませんが、ただ一つ天地を大事にさせて頂く、天地を拝むことは他の市長に負けないという自信がある。市長をしておれば、天地のバックなしには市政はやれません。
台風一つとってみても、今度の台風十三号も、直撃しておれば、今、梨の最盛期で、相当の被害を受けたと思います。
また、市政は自分一人ではできませんが、自分で人を動かすか、神様に動かして頂くかの相違があり、自分の力ぐらい大したことのないものはない。早く人力に見切りをつけることがいる。
神様のおかげの中の伊万里
今年の三月に、鹿児島の出水から北へ帰る鶴の一団が二十一羽、はじめて伊万里市の長浜という干拓に降りた。私はこれは天地の吉祥、何かよいことがあると申していたら、その長浜の干拓のそばの台地に、今、世界がその誘致に奔走しているという、IC産業、先端技術の電子産業の進出が決まりました。
昔、伊万里は焼物の積出し港で世界に知られており、その「オールドイマリの繁栄を、ニューイマリに甦らせねば」と言っていたのですが、今度進出する電子産業は、「世界一の工場を作る」と言ってくれています。
伊万里は何等立地的にすぐれたところはないのですが、新聞記者が「あまたある候補地の中で、なぜ伊万里に決めたか」と聞かれると、社長が「伊万里の市長の人柄できめた、最も信頼できると判断した」と言われたということです。私は何と有難いことか。私にはそれだけの力はないが、天地がバックしていて下さるということをつくづくと感じました。
天地を拝する
私は、朝五時の親教会の御祈念を信者さん方と共に拝して、親先生の御理解をテープで録ったものを聞き、信心研修をした後、庭に出て天地を拝みます。何か行事があれば、天気を祈りますが、あとは神様任せ、降っても照ってもおかげであります。
「どうして」でなく「こうして」
先程、信心は「どうして」と疑問を持つことでなく、「こうして神様が私に願いをかけて下さる」と信じて深めてゆくと申しました。
例えば、仕事で行き詰まる。「どうしてこんなことになったか、どうすればいいか」は常識の世界、それが好きな人は、その解決を求めればよい。信心はそうではない。「こうして神様が私を育てて下さる。これは神様の御神愛以外にはない」と、その信じ方をいよいよ深めて行く。そこから、天地金乃神の働きが始まる。
そこの道理を御理解第四十二節には述べてあるのです。だから、お取次は、簡単に言えば、「どうして」を「こうして」にいかにすっきりと変えることができるか。すっきりととは、信者がそこを本当に頂けるようにするかにあると思う。だから皆さん、お取次を頂いて、御神意を頂くということになって行かねばいけんですね。
御神意を取次ぐ
合楽のお取次は御神意以外にはない。例えば、事故を起こしてお願いをする。どんな事故であろうと、それが御神意であるならば、神様にお礼を申し上げねばならない。そして一切の責任を神様に持つ覚悟で、その処理は成り行きに任せる。
もしも相手から、少しでもよけいにもらうつもりなら、それはむしろ事故処理の堪能な弁護士のところに行った方がよい。一切を神愛と受けて神様に責任をもつ覚悟のできた以上は、あとは神様にお任せすればよい。よけい取れようと取れまいと、それが御神意。そこから本当のおかげの道がついてくる。
「一銭でもよけい取れますようにお願いしましょう」では、生かされて生きている生への変質は見られない。それでは御神意の受けようがない。助かりというのは、自分も絶対助からねばならないが、相手もまた絶対に助かる道でなければならない。これが道徳の世界とは違うんです。
道徳の世界においては、人間同志が譲り合い妥協を求めて、最大公約数で解決して行くんです。お互いの立つ瀬を考えて行くことになるのです。一般に、そのような場合、「がまんの子」を要求されますが、がまんの子は、信心の姿ではありません。
信心では、どちらもが絶対に助かって互いに立ち行く道でなければならない。それが、先に述べた相矛盾するものの同時存在、同時解決ということです。それには、まず、自分が一切を神愛と受ける絶対の立場に立つ以外にはありません。
神に対して無条件
例えば夫婦の場合、夫は夫の立場、妻は妻の立場となると、相反するものがあるのです。だから、その解決ということになると、道徳的解決の中ではお互いの最大公約数で解決して行くんです。あるいは、もう一つ高い次元の家庭という次元で解決していくんです。それしかないんです。
ところが、神様のおかげを頂くということになると、自分自身が神様に対して無条件になる。妻も神様に対して無条件になる。無条件の者同志の助かりになってくる。だから、どっちも絶対の助かりのおかげが頂ける。
ですから、それが信心の素晴しいところですよ。
相手にちいっとがまんしてもらわんと助からんということではない。道徳ではそう。ちいっと家内にもがまんしてもらわねば、おれもがまんするけんというような解決が多いんです。
そうじゃない。私が神様に対して無条件であるというのですからね。
人間から問題のなくなる道
合楽理念の真髄は一切神愛ということです。どんなことが起きてきても、一切神愛として有難く受けていくばかりですから、そこに問題の起こりようがないのです。
したがって、一切神愛とは、岸本博士の言われる「人間の問題の究極的解決」というのとはまた違うのです。岸本博士は、問題を他の力で解決しょうとしておられるわけですからね。ですから、そうじゃないですね。
一切神愛とは、問題そのものをなくする道です。問題が問題でなくなる道、神愛に変わる道ですね。この世の中には、人を幸せにせずにはおかん働きしかないと受けて、それを実証する道です。
一切神愛と頂く
最後に、御理解第六十九節に 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする」とあります。
現代の宗教には、そんなところがあって、却っておかげを受け切れずにいるんですね。どの宗教も哲学的な神を求めている。どうしてか私共にはわからんのですが、哲学的な神様が好きですね。
お道の宣言に「天地の道理に基づく生き方を進め 自然の生命を重んじ 自然と人間が調和する社会を求めていく」とあります。
自然と人間が調和する社会を求めて行くと言うても、いくら哲学的に求めて行っても現実化は致しません。そのための手立てこそが、一切神愛と頂いて行くことなのです。
信心をさせて頂く以上は、一切神愛と頂いて行く、全てに御の字をつけて行くんです。神様が下されたものとして、すべてに御の字をつけて行く。その頂き方をどうすればいいかというて、その一点に絞っておかげを頂いて行く。そこに、人間が人間らしく生きて、天地のおかげをみやすく頂いて行けれる道が開けてくるのです。それが、私は金光教の信心だと思います。【昭和五十七年 九月十九日 久留米教会】