かつらぎ教会金光大神大祭講話 合楽教会 伊万里支部 竹内通教師
和賀心世界布教運動の拠点として
「水と土があればいい」
皆様おめでとうございます。
今日は、家内もおかげを頂いておりますが、ここの子供さんにお会いしたら、「おめでとうございます」とおっしゃったんですね。素晴らしいですよ。もうそういうことが行き届いている。小さい時から行き届いているということはなんと素晴らしい教会だろうかと私は思ったんです。
私は、今年で七十五歳ですけれども、もうちょっと信心暦は古いんです。なぜなら、母のお腹の中からの信心ですから、十月十日加えなければならないのです。小さい時から金光教にお参りさせて頂いておりました。
だからもう、大祓詞なんか丸暗記しておったですね。それから具合が悪いと、母が、必ずお神酒さんと御神米でおかげを頂きました。それでおかげを頂けます。今はあまりにも薬に頼り過ぎていませんか。それでは、人間の回復力をなくしていますよ。
風邪をひいたら、すぐに薬を飲んで、熱を下げます。それは下がります。けれども、人間の自然治癒力が落ちるんです。だんだん弱くなってきます。金光様はそのことを「土と水があればいい」とおっしゃっています。病気も神様の御物と頂けば、絶対治ります。
実際に、私は、医者にかからないで、カリエスをおかげ頂いております。また、肋膜を患ってもいますが、医者にかかった方は、今でもレントゲンに出ます。医者にかからなかった方が出ないんです。そして、カリエスも御神米三百六十体でおかげを頂いています。
ここから膿が出てくるんですよ。それに毎日御神米をつけるんです。そうすると、膿がいっぱいついている。それでまた、御神米を換えて、上から脱脂綿を絆創膏で張って、学校へ行っていました。
中学校五年生の時は下宿しておりましたから、膿がついていて臭いですから、下宿でそれを焼くわけにいかないのです。朝晩御神米をつけて、半年かかりました。一日二回貼り直しますから、半年三百六十体の御神米で皮がかぶってきて治りました。
お風呂に入るのに、肩までつかれなかったものですから、寒くてしょうがなかった。それが肩までつかれるようになったことが一番有り難かったです。
お医者さんにもかかっていないし、学校で身体検査があると、ここに絆創膏を張っていますから、「ここは何をしたのか」と言われると、「怪我をしました」と答える。すると「ああそうか」と言って気にもかけない。恐らく、藪医者なんでしょうね。そのまま通ってしまって、何のことはないわけです。
そして、五年を一番で卒業しているんです。皆勤賞ももらっています。しかも、当時は、大演習といって、三泊四日で訓練がありました。自衛隊の訓練のようなものがあったんです。その時は、中隊長で、一番先頭に行かなければいけない。夜、民家で泊まった時に、つけ替えなければいけないのですが、人前でつけ替えるのは恥ずかしいですから、田舎に行くと、わらを積んだのがありますね、その影に行って、月の光でつけ替えました。
だから、私の肺の中には、他の人に入っていないものが入っているんです。何が入っとるかというと、御神米とオキシュールが入っておるわけです。脱脂綿も入っている、絆創膏も入っている。そして、おかげを頂いたんです。
半年間かかって、肩までお湯につかれた時の有り難さは、もう神様にお礼を申さずにはおられませんでした。その感動が和賀心なんですよ。皆さん今日は和賀心ですか?もし和賀心でないとすると、金光教の信心は頂いていないということです。和賀心で絶対におかげを頂く神様ですから、他に元手は何もいりません。御祈念が下手でもかまいません。和賀心を頂かなければだめです。
天 地 を 拝 む
今日は、素晴らしいお天気です。私は、かつらぎ教会の御神徳というものを感じます。皆さんの真心がこのお天気のおかげを頂いているんだと思います。もちろん、雨もおかげですよ。私のように市長をしておりますと、晴れだけがおかげじゃないんです。雨が降らないと、今年の九州のように、水が足りなくて困るんです。
雨も有り難い、天気も有り難いと分かった上での、この素晴らしいお天気を頂くというのは、御神徳がないとできません。そういうかつらぎ教会に、皆さんはおかげを頂いておられる。本当に有り難いことだと思います。
それと、御霊様の御比礼。私はここの教会に参らせていただいて、御霊様の御比礼というものをつくづく感じます。ですから、その御比礼を頂いて、今日のかつらぎ教会のお祭があっておるわけです。
私は、毎朝三時五十分に起きて、家の外に出て、天地を拝みます。今市長を辞めましたけれども、まだ続いております。それは、天地の味方を得なければ市政はできません。災害ひとつあっても、それを大難は小難に、小難は無難におかげを頂かなければ、市民が困ります。だから、毎朝三時五十分に起きて天地の神様を拝むのです。
まず天地の親神様を拝んで、四方の神々様を拝むのです。日本には八百万の神と言って、八百万の神があるわけです。
金光様は八百八金神様を信心しておられました。だから、金光様の信心というのは素晴らしいのです。八百八金神様総てに礼を尽くしていかれたのですからね。しかも、それだけでも足りないからと、どこにどのようなご無礼お粗末があるか分からないというので、八百八金神様、残らずの金神様と言って拝んでおられます。
まだ、私では言い切れない金神様がおられるかもしれないから、そういう金神様もよろしくお願いしますと言って、これだけ言えば神様の方が感心されます。この氏子には、何かおかげを授けたいと思いますよ。
私どもは、ただひとつの神様だけ拝んでいるつもりですけれども、それもあまり拝んでいないかもしれない。私も、八百万の神々を毎朝拝んでいます。そして、私のどこにいたらないところがあるか分かりませんから、天地自然の神様の中で、残らずの神様にお礼を申し上げる。金光様はそれをやられたんです。ですから、残らずの金神様、皆様と申してもいいと言われている。
だから、金光様とか、天地金乃神とか言わなくてもいいのです。皆様でいいんです。要は、こちらの心です。それが大事なんです。
皆さん、信心は小さい時からさせて頂いた方がいいですよ。私はお腹の中からの信心ですからね。
その後いろいろと勉強をしてまいりました。中学校、高等学校、大学と、ずっと勉強してまいりました。そして、いろいろな宗教の本も読ませてもらいました。また、金光教でも、この方はという方の教えは総て聞かせて頂きました。そういう場合に、本教の先生方はそうですけれども、よその宗教の先生のお話を聞いても、小さい時から信心をさせて頂いていると、自分の信心に帰ってくるんです。
ははあ、あの教えというのは、こういうことを教えておって下さったんだということで、他の宗教のお話を聞いた時も、わが教えに帰ってくるのです。そして、金光教のみ教えをどんどん、どんどん深く頂いていくというということになっていくんです。
だから、小さい時から信心のおかげを頂いとかにゃならんです。そうしますと、それが必ず自分の信心に戻ってくるのです。金光教のみ教えというものは、非常に簡単ですから、簡単に受けようと思えば、どんなに簡単にも受けられます。しかし、深めていけば、どんなにでも深められます。私どもの親先生なんか、三十五年間、御教えと和賀心の関係に取り組んできておられます。
かつらぎ教会との御神縁
今回、かつらぎ教会にご縁があって来ましたけれども、私でなければいかんという面があったのです。神様がちゃんと、そういうところを下さっておるんです。
合楽教会でこちらの先生とお会いしたわけですけれども、それはそれとして、こちらに石本さんという方が修行に十日間くらい来ておったんですか。これは、合楽教会の修行生です。
この方のお父さんが、私の家で信心の稽古をさせて頂いていたんです。佐世保におりまして、山を越えてお参りして来ます。佐世保から車で四十分かかります。それに必ず、今九十三歳になられますおばあちゃんと一緒に朝五時の御祈念に参ってくるんです。しかも、わざわざ、その人の家に迎えに行くのには、反対側に行かなければならない。反対側にわざわざ迎えに行って、山を越して、私の家まで来る。
その当時は苦労しておられましたから、いい車が買えないんです。だから、どこで止まってしまうか分からない。だから止まったところから、朝の御祈念をします。それでもあまり止まったということは聞いたことがないです。
その石本さんとおばあちゃんがお参りして来るたびに、車の中で、親先生の御理解を聞いてくるんです。そして、信心共励をしていく。それが九十三歳のおばあちゃんの今の助かりになっているのです。
はじめは他の信心をしておりましたが、どうしても引っかかるんです。抜けない。けれども人間は抜けなければだめですよ。抜けるということは、どういうことかというと、「ままよ」ということです。死んだと思うた気になるわけです。「死ね」じゃないですからね。そこが有り難いんです。
哲学者などは、死ななければおかげを頂けない。ところが、信心は、「ままよ」という心でおかげを頂く。死んだという気になれば、神様が見ていて下さるんです。それで、そのおばあちゃんが、今私の方に手紙が参りますけれども、抜けておられるのです。これだったら安心だと思います。
その証拠に、津上ファミリーといって、一家一族が全部信心をされておられます。それは、やはり、このおばあちゃんの信心を見て、この信心ならば確かだということから、一族一家が助かっているんです。
石本さんと一緒にお参りしていなければ、そのお話を聞いてなければ、おそらくそれほどには行かなかったでしょうね。おばあちゃんの信心は、おばあちゃんの信心で終わったと思います。
その石本さんが、成田に移られたんです。そしたら、娘さんが合楽に修行に入られた。その様子を、ここの教会長先生から聞かしてもらって、おかげを頂いているなあと思ったんです。
その石本さんが、和賀心教典を離さないんです。しょっちゅう持って歩いているというのです。これはやはり、私たちの生活の土台ですから、糧ですからね。
お結界は御神意を頂くところ
今日は、私どものところの若先生(現教会長)は、東京の亀有教会の御大祭に行っておられるんです。亀有教会の先生というのは、身体障害者です。椅子に座っておられて、身動きもとれないのです。けれども、御理解となるとしゃんとした御理解をなさる。車椅子に乗ったままでお取次されるんです。金光教ではびっくりしたんです。合楽から行くと言ったら、身体障害者を東京にやるなんてということだったそうです。
けれども、御比礼はどんどん立っています。日に日に信者さんが多くなっています。何で助かりますか、和賀心で助かるのです。体の自由が利かないから、和賀心がたくさん出てくるわけなんです。手足の自由を利いた者は、身体に頼るから心が留守になるんです。神様のおかげを頂かなければ立ち行かないわけです。自分の身なんか考えておられないのです。そして、お話をされる、お取次をされる。おかげにならないはずがありません。
皆さんは、お結界で何を願っておられますか。ここで何を聞いて帰られるのですか。お願いしたことの対症療法といいますか、病気なら病気をお願いしたら、「どうすれば助かりますか」などというようなことを聞いて帰っても、おかげにはなりません。ここのお結界のというのは、御神意を聞くただ一つの所です。よその宗教にはありません。
弁護士さんの所へ行ったって、「それは御神意です」などとは言いません。「難はみかげです」と言いますか。お医者さんの所へ行ったらそう言いますか。人間の問題は、お金の問題か、人間関係の問題か、病気の問題ですから、金融機関に行って、「それは御神意です」と言いますか。
ここにお参りしながらも、御神意を聞いて帰らなければ、金光教のお取次を頂いたことにはならないのですよ。他のことは聞いてくる必要がないんです。今日、今、私の身に起きている難儀に対して、神様がどういう御神意であるかということを聞いて帰らないとだめです。その受け物さえできれば、御神意通りのおかげになります。その受け物ができないのです。そして、御結界を非難するんですね。
金光様は、「神様ほどお気の毒な方はない」と言っておられます。なぜなら、お医者さんは、三年五年と直らなくても、悪口を言う者はいません。またかかっておる。ところが、ここでは、一遍おかげを頂き損なうと、「この神様はあてにならない」と言います。
そうは言ってもおかげを頂いているのですけれどもね。自分の思う通りにならなかったというだけの話です。本当は思い通りにならない時こそ、思い以上のおかげになってくるのです。それを自分の心にちゃんと受けて行かなければならないのです。
右とお願いした時に、左と言われた時に、ああこれはだめだとすぐに思ってしまうのです。私は右と思ったのに、左と言われたということは、これはこの先どういうおかげになるか分からない。そこから、もうおかげが始まっているのです。だから、心ひとつでおかげを頂けるということです。自分の心をしっかり作らなければだめです。
そういうように、若先生は東京です。そして、私の長男が今ポートランド教会で修行させて頂いているのですが、今日はシアトル教会の教会の大祭で、そこに行っているのです。
今日は、和賀心が、合楽から東京に行って話があっとる。シアトルに行って話があっとる。私は、ここかつらぎ教会におかげを頂いております。和賀心の世界布教運動です。和賀心を頂かなければ助からないのですよ。金光様が差し向けて下さっておられるんです。本当に有り難い御用だと思います。
若先生は、何か重要なことがあると、この和賀心教典を頂かれるのです。そして、それに沿っておかげを頂かれるのです。それを今日の事柄の糧として取り組んでいくのです。そうしたら、絶対におかげを頂きます。今も、どんどん、日本全国からお参りがあっております。
御神意ひとつです。これに御神意がどうこもっているかというのがひとつ。それでおかげを頂いておられるわけです。
私どもは、御結界がありますから、これを開く必要がないわけです。御結界のお届けすれば、ちゃんと御神意を頂きますからね。そして後は、右になろうが左になろうが、一切不平は申しませんということです。不足は申しません。御神意のままにということですね。とは言っても、お願いはしなければいけないですよ。
和賀心を見識に
私も、今度の選挙のことをお願いしました。そして、お願いしてからのことは、神様のご都合ですから、落ちたら落ちたことが御礼です。落選御礼です。
ですから、今は、言葉に言い表せないほどのおかげを頂いています。市庁舎の車はトヨタでしたけれども、今、どこかに行こうとすれば、ベンツで迎えに来てもらえるのです。月給も、市長の時よりも多く頂けます。お米が絶えたことがないです。果物、お菓子と、神様が見て下さるのです。
自分を捨てなければだめですよ。人間は何かにかがりつこうとしますが、そのかがりつこうとすることを捨てて、神様任せにして見ませんか。どちらが本当か試してみることが必要です。親先生がこう言われた。今回はもう、親先生任せにしてみたらどうですか。必ず御比礼を頂きます。
そして、石本さんは、いつでも神様が出てくる。皆さん、いつでも神様が出てきておりますか?もう、わが家に帰ったら親子喧嘩をしたり、夫婦喧嘩をしていたのでは、神様がどこおられるのやら分からない。
金太郎飴があるでしょう。どこを切っても金太郎が出てくる。だから、親先生がよく「いつでも神様が出てこなければいけないよ」と言われます。だから、和賀心が出てくればいいんです。
金光様が一番心配されたのは、そこですね。それが、和賀心が出てこない。見識になっていない。見識になるということが大事なんです。見識というのはどういうことかというと、「あの人は見識持ち」と言うでしょう。それは、素晴らしい判断のできる人だということです。だから、和賀心で判断ができるようになることが、和賀心が見識になるということです。
何か事があった。それを和賀心で解決しなければならないわけです。それを他のことで解決しようとしても解決しません。そして、どうにもならない時に御結界に行くのです。そうすると、その和賀心を与えて下さる。
私どもは常に、それをやらせて頂いておるわけです。どこを切っても神様が出てくるくらいにならないと、本当の信心にはなってこない。心でおかげを頂く信心ですから。表行じゃないのです。合楽では表行は全廃になっております。昔は合楽でも表行をしていました。それは全廃されました。
金光様も、「表行よりは心行をせよ」と言われておられます。「表行というのは迷いだ」と喝破しておられます。だから心行をしなければいけないのです。心行は難しいですけれども。
ある人が、金光様に、「山に登って修行に入ります」と言ったところ、金光様は、「どのような修行をするのか」と言うと、「人のおらない山に入って、そこでだんだんと食事を減らしていって、最後には水を飲みます」と言ったら、金光様は、「自分の心の中に山を作って修行しなさい」と言われました。こういう心の用い方というのはどうですか、これは神様が感心せずにはおられないと思います。
瀬戸美喜雄先生という先生がおられますが、「思い分け」ということを言われています。その「思い分け」ができるというのは、そうざらにはいません。金光様は一番の思い分けの天才です。今、私が読ませていただいても、涙が出るくらいです。
縁があれば助かる
皆さん、こうして縁があるのですから、縁があるということはどういうことだと思いますか。絶対助かるということです。だから、自分から縁を離すようなことをしてはいけません。ところが、自分で離す人が多いのです。本当に惜しいことです。縁があったら絶対助かります。
今、ブラジルのロンドニアというところ、アマゾンの一番の奥地、人のいない大自然界の中に、梶原先生(現在はクリチーバ布教所)が布教に行っておられます。何にもないところです。電気もなくて、最近ついたところです。合楽とご縁を頂いてから、すぐに電気がつきました。
その先生のところで、散弾銃で、二十発くらいの破片を受けた人が運び込まれた。神様にお願いをさせて頂いたら、全部急所が外れていて助かったそうです。だから、縁のある人しか来ないのです。助からない人は来ないのです。
縁があるということは、絶対助かるという自信を持たなければだめです。すぐに心配するのです。その心配は神様に預けなければいけないのです。自分は安心を持って帰らなければだめなんです。だから、教祖様は、氏子が安心を得ることばかりに、努められたのです。どうすれば安心が得られるだろうかということばかりに努められたのです。
お願いに来る。お願いをしなくてもおかげを受けるのだけれども、「お願いをしてやらなければ、氏子が不安の心を起こす。それがおかげにならない」と言われるのです。それでだめになるのですよ。お願いしたことが神様に届いたか届いていないのかじゃなくて、自分の心が塞いでしまうわけです。どうしてだろうかと思ったら、もうそれがおかげにならないと言われる。
だから、まずは安心のおかげを頂かなければならないのです。神様にお願いしたら、神様にお任せしたらいいのです。そして、自分は安心を得なければいけないのです。そしてまた、御結界を離れると、それを持って帰るのです。親先生がちゃんと引き受けて下さるから、そのことはここに任せて、そして、安心を持って帰らなければいけません。そうすると、そのことはおかげになります。
「天地書附」を頂く
和賀心というものは、もう少し大事なのです。なぜならば、自分が安心を得られるだけでは、神様が感動して下さらない。だから、本当に神様が感動して下さるような和賀心にならなければならないのです。本教でも、これはあまり説明していないのです。今、天地書附の話がありましたが、天地書附というのは、三つの要素からなっているのです。
一つは、「生神金光大神 天地金乃神」とあるでしょう。だから、生神金光大神との出会いが一番最初なのです。金光大神のお取次を頂かなければだめなんです。各地に金光大神を差し向けて下さってあるわけですから、そこそこでおかげを頂くわけです。金光大神様のお取次を頂いて、天地金乃神様がどういう神様であるかというのを悟らなければいけないわけです。
天地金乃神様を信心していますか?本当ですか?天地金乃神様というのはどういう神様だと思いますか?
金光様は、初めは、祟り障りの金神様を信仰されたんですね。そして、もう徹底的に叩かれておられます。叩かれておられますけれども、神様と名の付くからは、人を助けずにおかないお方であることには違いない。それを徹底されたのです。そして、祟り障りのあるぐらいに力のある神様ならば、また、助ける方にも力があるに違いないという頂き方をされたのです。そういう頂き方ができますか?
ちょっと何かがあると、もうだめだとか、神様を非難するでしょう。金光様は神様の方を絶対に非難しておられません。常に自分の心を正すことに持ってこられるのです。「慢心は大けがの元なり」と、改まることに持っていかれたわけです。そこがまた感心させられるところです。もうこの方のような氏子はいないと、ほとほと感心された。そして今までの、祟り障りの神様が、人を助ける神に、そのまま姿を変えられたのです。
だから、天地金乃神様を拝むなら、それは、金神様を裏返しにして、人を助けて下さる神様、難はみかげの神様と頂かなければいけません。難儀を難儀のままで見るようなことでは、天地金乃神様を頂いたことにはならないのです。
初めは金神を拝んでおられる。だんだんそれが、祟り障りをするところから、人を助けることになってきたのです。だから神様の名前が変わっていくのです。最初は「鬼門金神」だったんです。ところが「鬼門金の神」とか、「天地金神」とかずうっと名前が変わってくるのです。
ある信者さんが、きもんとは「鬼門」と書きますねと金光様に言ったら、いやそれでは恐ろしい神様のようだから、「きもん」でいいのだと、ひらがなで言われたのです。だから「きもん金の神」でいいのだと言われたのです。
「きもん」と言われたら、「喜門」でもいいのです。「貴門」でもいいのです。その人の考え方でどうにでもなるわけです。どうにでもなるのが心ですから、その心でおかげを作っていかなければだめなんです。
二代金光四神様は「おかげは神様から出ると思うな。氏子の心から出ると思え」と言われています。
そういう意味からいくと、「かつらぎ」というのはひらがなでしょう。だから素晴らしいと思います。よくぞ町名の「かつらぎ」がひらがなであったと思いますよ。大体は葛城と使っています。奈良県では葛城というのはこう書くでしょう。だから、それと区別をするためにつけられたのではないかと思います。
「土 の 心」
ひらがなであるというのが素晴らしいです。なぜなら、「桂木」というのは、合楽の親先生の一番好きな字ですからね。しかも、ここの親先生が「圭子」と言われる。合楽では、「木」は心と言います。そして「土」が二つですね。またこれが素晴らしいのです。
私は人生観を語る時には、「土の心」と言います。合楽の親先生は、「人間は土から出て土に還る。その道中とても土の心で」と言われます。だから、水と土さえあればおかげになるのです。
こちらの心次第です、心が曲がっているとおかげにならないですよ。水がない時には、馬の足跡にたまっている泥水でもおかげになると言われます。そういう宗教ですよ。酒の毒が酒で直るのです。あなた達はグロンサンで直すでしょう。なぜならば、教典に、「もうお酒をやめます」とお届けした信者に対して、「酒はやめて神酒を頂け」と言われました。心一つで変わってくるわけです。
九州の開祖である桂先生の奥様は、大変な修行をしておられます。あかぎれで手がどうにもならないくらいで、神様にお願いしたら、「水で直せ」と言われたのですからね。水が原因で、しもやけやあかぎれができているのに、それを水で直せと言われて、水で直されたのですからね。そういう信心なんです。
こちらの頂き方次第です。「有難き、勿体なき、恐れ多き」の喜びの三喜でおかげを頂けとも言われます。すべてを頂く心になると、すでにおかげを頂いていることになります。
ある時、私どもの家にお参りしている方が、「安産のおかげを頂かせて下さい」と言ってお参りしてきたわけです。そこで親先生にお届けをさせて頂いたら、「圭子」と頂いたのですからね。ご縁があるなあと思ったんです。
だから、圭子先生のお名前を見て、これは、かつらぎ教会に私が行くことになったはずだなあと思わせて頂きました。やはり今日は私がここに来させて頂かなければならないことであったということを思わせて頂きます。
もうこれは、神様の依さしと言いますか、そういうものがあると思うのです。今日は、和賀心運動が、シアトルでも、東京でも、また、この紀伊半島でもあっておる。ここがその元になって下さい。和賀心でないと助からないのですから、金光教はもう、和賀心でおかげを頂く以外ないのです。
この前、築水信徒会というのがあるのですが、そこの一泊研修会があって、そこで、私に、金光大神の信心の本質を話すようにということで、させて頂きました。この秋の大祭は、金光大神大祭ですからね。だから、金光大神の信心を頂かなければだめです。
それでは金光大神の信心の本質は何かというと、「天地書附」です。「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え」と。だから、まずは生神金光大神を頂くことが大事なんです。人が頂けないようなことを頂いておられる。
御結界に蟻が這って来た。そうしたら、「蟻も参詣すればおかげになります」と言われた。
ブラジルのビリグイでもそういうことがありました。オンサというトラがいる。ある人が、そのトラに出会ったのですけれども、おかげを頂いておられます。「地雷下の中でも神は助けてやる」と言われるのです。
「難」=「みかげ」
私どもはおかげの中にあります。難儀もおかげの中にあるのです。私もおかげの中にあるのです。神様がちゃんと支えておって下さるのです。その中での難儀ですから、ぜんぜん心配することはいらない。難儀は、私を育てるためにあるのです。それを覚悟しなければなりません。難儀をなくそうたって、絶対なくなりません。他の方法で直そうと思っても絶対直らないのです。
仏教では「因縁」と言われる。「因縁があるから難儀はなくならんのだ」と。
キリスト教では、「原罪があるからなくならない」と言っています。そう言って、みんな人間にかぶせるのです。そういう人間にかぶせるような神様が本当の神様と言えますか。
たとえば、病気をした。お願いをしたけれども死んでしまったという場合にはどうしますか。神様に力がないというように思うでしょう。だから、人間にかぶせなければ、原罪や因縁を付け加えなければ、神様の力がないように思われてしまう。
だから、金光教では、難儀は自滅しなければなくならないのです。この自滅をするというのが、難は即みかげと頂くことです。私を育てて下さるみかげだと。だからイコールですよ。「難をみかげ」ではないのですよ。「難」=「みかげ」なのですから。私を助けて下さるための、私を育てんがための神様のお働きなのです。
だから、外からこれをなくそうと思っても絶対なくならない。難が自滅する以外にない。難が自滅するところに、みかげと頂くことになる。だからちっとも心配することはいらない。
私にも、毎日いろんなことが起こっています。起こっていますが、それがおかげなんですから。神様の支えの上に難儀もあれば、私もあるのですから、ぜんぜん心配する必要がない。ただ、私がそう頂けるか頂けないかの差です。「心一つで総てを創る」と言われています。
受け物を作る
今日頂いた、「かつらぎ」の本の中に、「金光大神がおかげの受けはじめである。みなもそのとおりにおかげが受けられるぞ」と書かれてありますが、そのとおり受けていますか?受けておられないとしたら、それは受け物が悪いからです。受け物が大事なんです。金光大神という受け物を頂いて行かなければならない。金光大神の信心を受けて行かなければならない。
「酒の毒は酒で直る」と言われているのに、私どもはグロンサンで治そうとするのです。根本は、酒の毒が酒で直る神様を頂いているということを持っておかなければだめです。その上でグロンサンを飲んで下さい。
だんだん世の中がこういう世の中になってまいりますと、天地自然に帰らざるを得ないようになってきています。もう、文明が極度に、変な方向へ行ってしまっています。
私は七十五歳になって、自分の体に気をつけなければならなくなった時に、バイオビームの会社の名誉会長になってくれと言ってきたのです。それは、電磁波を作って身体を良くするのですね。なぜなら、人間が自分の体の血液の流れをよくして、そして末端の細胞の活性化を図っておかないと、人間はそのうちに、自分で自分をなくしてしまうですね。
先ほど言いましたように、風邪をひいたら、熱さましをもらう。そして飲めば直ります。直るけれども、人間の自然治癒力が減るわけです。だから、金光様は、最初から、「水と土でおかげを頂け」と言われているのです。薬を頂かれてもいいですけれども、その元は、神様から与えられておるこの身体に本当にお礼を申し上げなければならない。
こうして、今日私どもがあるということは、神様のおかげで、チャンスを得て皆さんがご縁を頂いていると思います。その感動を頂いて、その感動をそのまま人に話していくという。それが和賀心の道なんですね。
金光様は人が及ばないようなことをいろいろとされてある。いろいろされて、そして、自分の心の中に神を生ずるというところまで来られたのです。本当に、その御神意を分かるところまで、こられたのですね。御神意を分からなければだめなんです。御神意が分からないなら、お結界へ行きなさい。そうすれば必ず御神意が頂けます。その御神意の生活をさせて頂くことが、金光教の元です。
まずは和賀心を頂いて、和賀心と言っても、感動のない和賀心ではだめですよ。それでは、まだ本当の和賀心ではありません。もう少し和賀心についてお話したいのですけれども、時間がありませんので、これで終わらせて頂きます。
天地書附は三本柱になっています。一つは「生神金光大神」です、これはお取次を頂くということです。そのお取次は何かというと御神意を頂くことです。それ以外にはないということ。
そして、御神意を頂いたら、それを自分の金科玉条としなければいけない。それなのに、自分の思いと反対のことを言われると、すぐに疑うんですね。
お医者さんでもそう言います。患者さんが医者に見てもらう前からちゃんと病名をつけてきているそうなんです。それとは違ったことをいうと、「あの医者は藪医者だ」と言うのです。だから、名医と言われるのは、患者さんに逆らわない医者のことを言うんだそうです。
お結界でそれをやっておられませんか?自分の思うとおりの答えではなかった、それで、御結界はだめだと思う。そうではなくて、いつでもこちらがだめという思いで貫かれたのが金光様です。
そして、天地金乃神様、金神を天地金乃神に変えられたでしょうが、その証拠があるわけですから、いつも自分の心に帰ってくる。
和賀心を世界に
合楽の親先生は、車椅子の上でも、いつも改まりをされています。日々がさらですからね。日々が改まりという信心をされておられます。だからあれだけのご比礼が立っていくのです。
しかも、私の子供も、ポートランドからニューヨークに布教すると思いますけれども、文明の爛熟した国であろうと、あるいは、大自然界のロンドニアというようなアマゾンの真っ只中にあろうと、金光教で開く元手は、和賀心唯一つです。絶対おかげになります。金光様が保証しておられます。教典を見てください、助かっていない人はありません。全部助かっています。
しかし、心というのは、日々がさらのおかげを頂かないといけないから、最後に、「今月今日で頼め」と言っておられるのです。もう今月今日で頼まないとすぐに心が変わってしまう。
そして、日々育てて頂いて、本当に御神意の頂ける自分にならせて頂くことです。家族が信心せんとか言う人は、自分の信心がまだ悪いのです。自分自身が神様を頂いていないから、人がついて来ないのです。
先ほどの津上さんという方は、九十三歳です。もう一族全部が信心をされています。それはやはり本当の信心をしているからです。本当の信心をするまではついて来なかったのです。本当の信心をさせて頂くことです。
私の家では、夜の八時に御祈念をします。子供が全部集まってきて、子供に先唱をさせます。すると、喜んで先唱します。そして、今日一日の中であったことを一言話させます。そういうおかげを頂いているわけですけれども、皆がついてくるということは、少なくとも、まともな道に向かっておるんだなということを思わせて頂きます。
自分の信心が本当であるかないかということは、自分の家族が、一族がついて来るか来ないかですぐに分かるんです。そういう証左を得ながら、真の信心を求めて、本当に皆さんが助かっていく。
これからの時代は、和賀心でないと助かりません。だから今、私のところでは、「和賀心世界布教運動」というのを、やることに致しております。今日はまた、その一環でもあったわけでありますけれども、かつらぎとの大変なご縁を頂いて、こちらの先生からお手紙が来ると、合楽から来たのと同じことです。合楽の親先生が一番喜ばれるお名前を頂いておられるのですから、やはり願いがかかっていると思います。
私どももさらに和賀心に向かって信心のけいこをさせて頂きますので、皆さんもどうぞ、これからかつらぎ教会が、紀伊半島の、いや、関西の和賀心の拠点になって頂きたい。
私は、今、家を移りまして、あそこが、佐賀の和賀心の拠点になるというお知らせを頂いておる訳ですけれども、そのおかげを頂いてまいりたいと思います。
おかげを頂きましてありがとうございました。【平成6年 10月30日 金光大神大祭】