本日は、シカゴ教会開教10年祭おめでとうございます。
私は日本の福岡県にあります金光教合楽教会の大坪恵美子といいます。シカゴ教会、竹内正教先生の妹になります。
今日のお話は、本当は私の主人の大坪光昭先生がさせて頂く予定でした。でも去年の6月8日に68歳で亡くなりました。病名は胃癌でしたが、光昭先生は癌という病気ではなく癌という神様の御都合、神様のお差し向けと頂かれました。
光昭先生とは結婚してから43年間ずっと一緒でした。人を楽しませることが好きな、心の大きな先生でした。夫婦仲もよかったので、光昭先生が亡くなったら、私は悲しくて辛くなると思っていましたが、今、こんなに元気で心の助かりを頂いています。それは、このお道の信心のおかげだと思います。
私達夫婦は天地書附に「おかげは和賀心にあり」と教えておられます、和らぎ賀こぶ和賀心に取り組んできました。
今日は、私の信心、そして光昭先生と共に取り組んできた和賀心、その和賀心によって頂いている心の助かりのお話をさせて頂きます。
金光教とのご縁
私の信心は三代目です。祖父が中国で、祖母が日本で同じ時期に金光教と出会いました。
私の父は二代目で学生の時に大病をさせて頂きましたが、金光様のおかげで、無い命を助けて頂きました。父は金光教の勉強をし、真の信心を教えてくださる先生を日本全国まわってでも探し求め続けていました。
父の思っている真の信心とは
一つ「神様のお働きが生き生きとしていること」
二つ「先生の元で教えが解かれていること」
三つ「その教えが日々に進展していること」
でした。
そして合楽教会の初代、大坪総一郎親先生に初めてお会いした時、「この三つをかなえてくださる先生はこの人だ」と思い、合楽教会の初代の元で信心の稽古をさせて頂くようになりました。
私も合楽教会に参拝させて頂くようになり、少年少女会のお手伝いをさせて頂きました。その頃、少年少女会のリーダーをしていた初代親先生の次男である大坪光昭先生と結婚させて頂き4人の子供を頂きました。
汚れたコップ
その当時、教会では土の心、黙って治める心に取り組んでいました。教典の御理解五十節に「とかく信心は地を肥やせ。地が肥えておればひとりでに物ができるようなもの」とありますが、大地はどんなに汚いものでも黙って受けてそれを滋養にし、土を豊かにして作物を作ります
自分にとって都合の悪いことでも、その事柄に対して不足を言うのではなく、「私を育てて下さる神様の働き」と頂いて、心を大きく豊かにしていけば、私の心が和賀心にならせて頂くという取り組みでしたが、子育てで精一杯で、ただただ、ぐうぐうこらえているだけでした。
合楽教会の開教30年祭の時、教会の改築があり100人くらいの人がみんなで一緒に食事をすることになりました。朝一番に台所に行くと、前の日の夜から朝にかけてお茶を飲んだり食べたりした洗い物が、こんなに大きなかご2つ山積みになっていました。スリッパもあっちこちに向いていました。私は「みんな一人一人が飲んだり食べたりしたものを洗っておけば、こんなに沢山はたまらないのに」と不平に思いながら毎日洗っていました。
ある日の朝、ふと「ああ、このコップひとつ、茶碗ひとつ洗うことで、私の心が綺麗になるなら、不平不足を言わず、楽しく洗わせて頂こう」と思い、本当に楽しく洗わせて頂きました。スリッパも楽しく揃えさせて頂きました。
それからは、この2つのかごが、3つになっても4つになってもいい、と思うようになり、楽しく洗わせて頂きました。そうしていくうちに、その2つの大きなかごが、1つに減り、10日ぐらい経つと洗い物が4,5個になっていました。スリッパもいつの間にか揃うようになりました。
神様ってすごいですね。こちらが心を改めよう、美しくなろうと頂いたら、こういう手応え見せて下さるんですね。だから、この汚いコップ一つの働きも神様のお働きと実感しました。
毎日、生活の中で心を育てることができる。私にとって嫌なこと、苦手なことでも、不平不足を言わず、神様が私の心を育てるために働いてくださっていると感じながら、楽しく、その事を受けてくうちに、私の心は和らいでくるし喜びいっぱいになる。和賀心に近づかせて頂く。そういう取り組みをさせて頂くようになりました。
名刺事件
そして13年前、正教先生がシカゴ布教10年祭をさせて頂きたいという事で、シカゴに初めて来ました。
シカゴに行くと決まった時に、ある方がアメリカに行くなら名刺を持って行ったほうがいいよと言われ、光昭先生が前にブラジルに行かれた時の名刺が残っていたので、それを持って行くことにして、「奥さんは大坪光昭の下に恵美子と書き足せばいいよ」と言われ、そうすることにしました。
この事を光昭先生は「名刺事件」と名づけられました。
出発の3日ほど前に「恵美子さん、僕、名刺渡したよね」と言われ、私はもらってないと思っていたので「ううん、もらってないよ」と言いました。すると、光昭先生はスーツケースに綺麗に準備していたものを全部出して見られました。けれども、なかったので「恵美子さん、僕のスーツケース全部見たけど、なかったから恵美子さんのも見てくれん?」と言われました。「うん、わかった」と言いながら、「私もスーツケースに綺麗にしまっていたものを全部取り出して見たけどなかった」と言うと「おかしかね。あ、そうそう、恵美子さん、もう一つ小さなバッグを持って行くやろ。もしかしたら、そこに入ってるかもしれんけん、それも見てくれるかな」と言われたものの「ないと思う。もらっとらんけん、入っとらんけん」と断言しながら、小さいバッグを開けたら、その内ポケットに名刺が入っていました。
私は「あった」と言ったものの申し訳ないやら、私がないと言い切ったプライドがあり、気まずい思いをしている顔を見て、光昭先生は、私をばっと抱いてくれました。
私はその時、和賀心に包まれたと思いました。なんと暖かい、私の言葉を責めるわけでもなく、大きな心で受け止めて下さいました。
「和賀心ってすごいなあ」と思いました。私もこんな心になりたいと思いました。そして、光昭先生は私を抱きながら「恵美子さん、シカゴに行く時はこんなことが沢山あると思う。でも、それもこれも神様がなさっていることだから、有り難く楽しく頂いていこうね」と言われました。だから本当に有難いシカゴ行きをさせて頂きました。
信平君事件
教祖様は、「何事もみな、神様のお差し向け」と御理解されてあります。それを大坪総一郎先生は「成り行きは神様の働き、一切が神愛」と教えて下さいました。
ここからは、何事も神様の働きとして頂くという事に私達夫婦が取り組んできた事の一つのお話しをさせて頂きます。
娘が2番目の子供を出産するので長男を連れて帰ってきました。
信平君といいます。4歳でした。
私たちは娘4人しか育ててないので、男の子がこんなに悪いのかということを知りました。本当に悪かったんです。部屋のソファーを駆けずり回り、御広前に行っても一分一秒じっとしていなくて走っていました。
「どうなるんだろう。でも、この事も神様の御差し向けとして、受けさせて頂こう」と腹を決めました。お広前で走っているのをさっと抱いて廊下に連れてきて「ここで遊ぼう」と言いました。そしたら悔しかったのか「ばーばのばか」と言いました。私はすぐに「ありがとう。ばーばは、ばか大好きだから」と言えました。
そのことを何回か繰り返していくうちに、信平君は私にバカと言わなくなりました。ばーばは怒らないからつまらないと思ったんでしょう。
光昭先生は光昭先生で夕方お風呂に入れてくれました。そしたら信平君はお風呂の中でもいたずらをしたそうです。石鹸を湯船の中に投げたり、お風呂の栓を抜いたり、その度に光昭先生は「ありがとう、ありがとう」と言って楽しく遊んでくれたそうです。
1ヶ月が経ち、すぐにいい子になるわけでもなく、相変わらず走り回っていました。いよいよ帰る日に御広前に行くと、御広前の一番前に座って、今まで御広前で一分一秒、座ったことがなかったのに、座って「天地書附」を奉体して帰りました。
私は有り難く、神様がご褒美を下さったと思いました。。
それから信平君が4年生になって、合楽に来て光昭先生とお風呂に入った時に「じーじ、僕が小さい時お風呂でイタズラしたろう?でもじーじは、ありがとう、ありがとうと言って僕を怒らなかったよね。僕は嬉しかった。」と言ったそうです。光昭先生は大変喜ばれました。
今は、その信平君も高校1年生。弟たちや小さい子供の面倒をよく見てくれて、教会のお手伝いもするとてもいいお兄ちゃん、おとなしいお兄ちゃんになっています。
こういうように、日々に起きてくる成り行きは神様の働きとして、それを有り難く頂く稽古をさせて頂いてきました。
癌様
そういう中で3年前、光昭先生が癌と診断されました。。
ステージ4でした。そう言われたのですが、光昭先生も私も癌という病気ではなく、癌という神様が下さったお働きと頂くことができ、不安はありませんでした。
光昭先生は癌様と言っておられました。
入院している時には、朝、昼、夜の御祈念はベッドの中で、朝は特に、病院の先生、看護師のこと、医療ミスがないように、千人くらい入院している方の病気平癒を毎日祈っておられました。
注射が苦手な看護師さんが、毎日針が入らず「大坪さんごめんね」と言いながら何回も刺されるけど「いいよ、いいよ僕を実験台にすれば上手になるよ」と言っておられました。でも本当は注射は大の苦手で注射と聞いただけで気を失うような人だったんです。
癌の手術はできなかったので、体がきつかったり寒気がしたり足が像のように腫れたりしても、一言も「痛いきつい辛い」とは言われず、「大丈夫、大丈夫」とばかり言われました。
癌によって人や事柄を責めたり、愚痴を言ったり腹を立てたりせず、大きく豊かで何でも受け入れられる心、和賀心を育てていかれました。
光明先生が残された財産
4人の娘達や孫達も、光昭先生が亡なって大変悲しみました。けれど光昭先生が亡くなって一年間半、いつも光昭先生が側にいて、見守ってくれている実感をそれぞれが頂いています。
例えば、岡山にいる孫に日和ちゃんという子がいます。
今は小学校2年生です。光昭先生が亡くなった頃、学校の担任の先生が産休に入られ、代わりに来られた先生の名前が「みつあき」だったそうです。
「じーじがずっと見守ってくれているね」と喜んで話してくれたそうです。
また、私が東京の亀有教会の御大祭で講師の御用をした時のことです。初めての講師の御用で不安や緊張の中、亀有駅に着くと、改札口に大きなポスターが貼ってありました。そこには68という数字が書かれていて、その下に「なんでもない日を支えています」と書かれていました。光昭先生は6月8日に68歳で亡くなりましたので、「光昭先生が一緒に来てくれている」と感じました。
こういうように、日々の生活の中で起きてくることの中に、光昭先生を感じることが出来ます。
光昭先生が私たち家族に残してくださった財産は和賀心です。
この財産があるから、私はこんなに元気でいられるし、安心のおかげを頂いています。
この財産がのおかげで、悲しみが100なら、有難い気持ちは200、300です。
光昭先生が残された和賀心財産を私だけでなく、4人の娘達も、お父さんみたいな和賀心を育てたいと、それぞれが自立した信心に変わってきています。本当にありがたいと思います。
これからも日々の家業の中で、成り行きの中で和賀心を求めていきたいと願っております。